利休書状と宮部藤左衛門

はじめに
 ここに宮部藤左衛門あての利休書状がある。利休自筆の書状かどうか、真偽のほどは別として内容を検証してみたい。

・寸法 縦32cm×横46cm  ・宛名部分(4cm)は切り離して継いである

1.書状の文面
 利休から藤左衛門へ湯(茶)の誘いである。夜になってもかまわないので是非来てほしいという内容になっている。

  自是御音信可申処へ
  結句御無事に罷成候 今
  度湯相當申候 御キサンも
  被懸御意候 過分いつも
  古織殿と御噂 今日も申出候
  夜成共一服申度候 此大阪に
  御留守中に待可申候
             是非共
  恐惶かしく
             抛筌斎
  八月三日     易(花押)
  「宮部藤左衛門様    利休」

 読み下し
  自是御音信申すべし処へ 結句御無事にまかりなり候
  今度湯相當(当)申し候 御キサン(帰参)もかない御意にかけられ候
  過分いつも古織殿(古田織部)と御噂 今日も申出候
  夜になるとも一服申度候 此大阪に御留守中に待可申候 是非とも

2.宮部藤左衛門について
  藤左衛門は秀吉より羽柴秀次(孫七郎)へ大名として派遣されていた宮部継潤の甥である。茶会記・書状等から秀次に近い立場にいたことが推測される。

①.系図
  宮部継潤 ―― 宮部長熙(ながひろ) 継潤の甥、養子となる (長房、定行、兵部少輔)
   〃 (妹)
      | ――  宮部藤左衛門   近江坂田郡醒ガ井 七百石、後に二万石(但馬二方郡 豊岡城か?)
      | ――  宮部肥前守宗治(弟)
    土肥刑部少輔

 ※宮部継潤(けいじゅん) 孫八、善祥坊、中務卿法印
   天正 五年  但馬二方郡  豊岡城 (天正八年の記述あり)
   天正十三年   因 幡   鳥取城 (←このとき藤左衛門が豊岡城を受け継いだか?)

②秀次との関係
 宮部継潤と秀次の接点は早く、元亀二年十月(1571)秀次4、5歳の時(宮部継潤が秀吉の調略により浅井長政から寝返った時)から天正二年(1574)年まで秀次の養父(秀次にしてみれば人質)となっていることから宮部一族とは深い交流があったと推測される。
 藤左衛門の年齢は不明だが、年が近い秀吉と継潤の甥同士ということから秀次と同年代と考えても良いだろう。宮部藤左衛門は幼少の時から秀次と行動を共にしていたと思われる。
  ※参考に関係者の生年月日を記載する。
   豊臣秀吉 天文六年二月六日(1537) ~慶長三年八月十八日   (1599)
   宮部継潤 享禄元年 (1528?)   ~慶長四年三月二十五日  (1599)
   豊臣秀次 永禄十一年(1568)    ~文禄四年七月十五日   (1595)
   千 利休 大永二年 (1522)     ~天正十九年二月二十八日(1591)

3.茶会記・書状等に見る藤左衛門
  茶会記・書状等に藤左衛門の名前が出てくるのを年代順に並べると下記のようになる。
 宗及茶湯日記自会記によると秀次と一緒に藤左衛門がいることから、秀次の相談役のような立場だったのであろうか。
  ただし、⑨の「宮但」が藤左衛門かどうかは研究の余地が残る。

                                  羽柴殿おひごの内衆        (関本)
  ①天正十一年六月二十日昼(1583) 宗及茶湯日記自会記(五巻) 宮部藤左衛門尉 牧新衛門   宗瀝
                                  筑州御おヰさま     (小寺)     (部)
  ②天正十一年十月六日朝        宗及茶湯日記自会記(六巻)  孫七郎       休夢    宮辺藤左衛門尉
                                  三好(秀次)       (宮部)    (小寺)
  ③天正十一年十二月八日昼       宗及茶湯日記自会記(六巻) 孫七郎殿      藤左衛門尉 休夢

 天正十一年は賎ヶ岳の戦いにおいて秀吉が柴田勝家に勝利(4月24日)し、織田信長の後継者となった年である。

  ※小寺高友 こでらたかとも 1525~?
   小寺氏家臣。黒田重隆の男。職隆の弟。通称千太夫。休夢と号す。職隆・孝高同様「小寺」を称した。秀吉の御伽衆を務め、1584年頃の茶会にも招かれた。九州征伐に従軍するほか、文禄の役でも肥前名護屋で茶会に参じた。

  ④天正十二年十二月朔日昼(1584)  宗及茶湯日記自会記(六巻) 百藤左(藤左衛門?) 休夢
                                   (羽柴秀次)
  ⑤天正十二年十二月九日昼       宗及茶湯日記自会記(六巻)  羽孫七郎殿      藤堂与右衛門尉殿
                                   次之間ニ宮辺藤左衛門ニ座敷之かざり見せ申候

                                   (宮部継潤)  (宮部)
  ⑥天正十三年五月九日晩(1585)   宗及茶湯日記自会記(六巻)  善浄坊   間藤左衛門

  ⑦天正十三年八月一日 宗国史
   宮部藤左衛門尉、藤堂高虎へ四国表大略平定の報に触れ、帰陣して羽柴秀次と参会する際の失念のないように折々の「取成」を依頼。
    ※『宗国史』は宝暦元年(1751)に藤堂高文によって著された。

  ⑧天正十四年以前 桑田忠親著 「定本利休の書簡」
  ・七十六 八月三日付宮部藤左衛門尉宛自筆書状
     その以来、無音せしめ候。孫七様へ御礼申し上げたく候。御取りなし頼み奉り候。
     御透きにおいては、ただいま祗候いたすべく候。恐惶謹言。
     八月三日              宗易(オケラ判)
     「                      抛筌
      〆宮部藤左衛門尉 人々御中   宗易」

    ※桑田先生はこの書状を天正十四年以前としている。秀次は天正十三年七月頃から改名していて、改名がいきわたるまでの期間を考慮すれば天正十三年で良いだろう。

   天正十三年六月に秀吉による四国征伐があった。総大将は羽柴秀長。伊予へ毛利・小早川・吉川軍が、阿波へ羽柴秀長・秀次軍が、讃岐へ宇喜多・黒田・蜂須賀軍が侵攻する。長宗我部氏は同年八月降伏し、土佐一国のみ安堵される。

  ⑨天正十六年 (1588) 小松茂美著 「利休の手紙」
  ・125 閏五月二十一日 宮但あて
     芳礼拝受、殊に勝魚三連、調法に給わり候。昨日、亭屋御目に懸け候。
     万事、隙を得ず候いて、久しく無音に候。京都御上洛の刻、申し承るべく候。
     恐惶かしく。
      閏(壬)五月二十一日      易(花押)
      「                   休
      封 宮但老人 人々御中    易」

   ※小松先生は 宮但老 = 宮部藤左衛門尉か? との考えを示唆されているが、天正十七年一二月八日付の豊臣秀吉朱印状に「因幡国所々四万三千六百石拝但馬国之内二万郡七千参百七捨石、合五万九百七捨石事令扶助乞、右内壱万石無役残而四万石分弐千人之軍役可相勤候也。    天正十七十二月八日   宮部中務法印」 とあり、宮部中務法印(継潤)へ因幡国と但馬国が与えられていたことがわかる。 また、この時の宮部中務法印(継潤)が60を超えていることから 宮但老=継潤 と考えるのが自然と思われる。

  ⑩NHKの番組(未確認)
   東浅井郡虎姫町宮部(現長浜市)の国友義一氏(宮部史談会)から、NHKの番組で宮部藤左衛門宛の書状が流れていたとの情報を得た。
  京都の和菓子屋が所持しているようだ。当時(H18年頃)NHKに問い合わせたが確認出来なかった。

4.年代の推定
   桑田忠親著 「定本利休の書簡」によると、抛筌斎の使用は天正十四年九月以前、利休の使用は天正十四年七月以降となっている。
  本書状は本文に「抛筌斎」、宛名部に「利休」の署名がしてあることから、天正十四年の七月から九月の間となり八月三日の日付と合致する。
   また、古田重然が従五位下織部正に叙任されたのが天正十三年七月であるから、本文中の「古織(古田織部)」の表記より天正十三年七月以降の書状であることがわかる。
  さらに、本文中の「キサン(帰参)」を四国征伐からの帰参と捉えれば、本書状は「天正十四年八月三日」と推定できる。
   仮に天正十三年とすると同じ日付の書状が⑧にみられ、本書状を含めた一連のやりとりと推測すると面白いが、花押の形、宛名下の「利休」と「宗易」の違いがあり無理がある。

5.おわりに
 宮部藤左衛門という歴史的にはあまりメジャーでない人物あての書状であるが、内容をみると「夜噺の茶事」の床へ掛けたら面白いと思うがどうであろうか。
 今後、この一文が藤左衛門、利休そして秀次研究の一助となればと思う。