待 庵

平成12年9月 待庵訪問

待庵の露地(西側)

JR山崎駅のすぐそばで、「え、こんなとこにあるの」という感じを受けた。
妙喜庵のご住職より丁寧な説明があり、
 ・床正面が平面でなく2cmほどくぼんでいる。
 ・床の天井もカーブがついていて、現代では補修できないのでワイヤーでつってある。
 ・控えの間の下側の下地窓は元々高い位置にあった。
 ・壁の藁すさが、茶道上達?のお守りとして取られてしまっている。
ことなどを聞くことができた。

実際に拝見し(にじり口から)、
 ・床の天井が低く、手前にかぶさってくる感じを受けた。
 ・次の間(控えの間)との壁が極端に薄く、鴨居が飛び出ている。

また、風炉の時期なのに炉が開けてあるのを聞いたところ、隅炉の場所がわからずよく質問されるため炉畳にしているとの話しだった。

蹲まわり・・・当日は水が張られてなかった 塵穴・・・埋まってしまったのか浅くなっている
東側の壁面 竹を通してある窓


拝見していて、疑問点がでてきた。
 ・当時の建物は茶室に限らず仮設で移動できるものとの考えがあったはずなのに、なぜ外しにくい塗り回しの壁、床を天井まで土壁の室床にしたのか。
 ・次の間とのしきりを引き違いの茶道口としている。
 ・次の間との壁が極端に薄い。
 ・茶室内だけでなく、控えの間、勝手の間も塗り回しの壁にしている。
 ・次の間に脇板がついて広くなっている
 ・勝手に片引きの茶道口がついている

勝手側の片引き戸・・・壁の手前に鴨居がある 勝手の壁も塗り回してある

ここで勝手な「もともと三畳の席ではなかったのか」との仮説を立ててみた。
 ・三畳の席と考えてみると、次の間が点前座となり脇板が付いていることなど不審庵(表千家:三畳台目)との共通点が出てくる。
 ・次の間との薄い壁、引き違いの茶道口も後から付けた為このようになったと説明がつく。
  また、元々は上にあった下地窓も、点前座でなくなったため下側にしたと考えられる。
 ・給仕がしにくいのと風炉先から入る形を嫌って、あとで二畳へ変更したのではないだろうか。

いずれにしろ、いろいろと想像できて楽しい拝見でした。
次の機会には是非とも茶室内に座ってみたいとの思いを強くして帰ってきた次第です。


追記
 先日、「日本茶道陶藝史展 茶の心」という昭和57年に開催された展示会の本を入手した。
 この中に大河内風船子さんの「茶の心」という足利時代から幕末までを書いた一文があり、洞床の横にあるのが水屋、次の間が点前座の三畳の茶室であったという記述を見つけた。