加藤麦袋 ~ 麦袋百態
出会いは名古屋の骨董市。なで肩の肩衝茶入に魅せられた。
ここ陸奥の茶会では出会うことがなかったこともあるが、「春岱」は知っていたが「麦袋」は知らなかった。
近年のインターネット発達により作品に出合うことが増え、その多様さに驚きを覚えた。まさに「麦袋百態」と言えよう。ま、100碗は持ってないのだが。しかし「麦袋」に関する情報が極端に少ない。やむを得ず自分で纏めてみようと思った次第。
1.経歴等 ・・ ネット等の情報
①「小傳」によると
尾張国瀬戸(注01)生まれ、明治6年(1873年)陶祖27代加藤春岱に入門※、陶祖春景翁の窯跡で良土を護り茶器を製する とある。
※1861年生まれだと12歳、1854年生まれの場合19歳となる。
②「日本陶業連盟」によると
本名 友五郎、1861(文久元年)東春日井郡(注02)生まれ、没年不詳
瀬戸唯一の焼物についての識といわれながら、語ろうともせず、変り者として通す。
③「meikan-web」によると
尾張国(愛知県)出身、1861(文久元)~1943(昭和18)、本名 加藤友太郎 号:麦袋
④「一宮市博物館データ検索システム」/「絵志野立鶴茶碗」の項によると
本名 加藤友太郎、文久元年~昭和18年、82歳で没とある。
※立鶴茶碗の他に「戸島光基(画)染付鹿絵水指」も出ている。
⑤「Setopetia」によると
茶碗・茶入などの茶陶に優れた。人との接しを避け無口で変り者として通す。
⑥「MARUWA(尾張旭市)」のHPに写真が出ているがルーツということか。
会社へ問合せしたら早速連絡があり、社長の曾祖父とのこと。
⑦「中部の陶芸作家事典」/水野古麦(注03) の項
大正15年生まれ
加藤秀山(注04)の三男として生まれる。加藤麦袋に師事。 とある。
⑧「水埜古麦氏の陶歴」/ 津田応助(注05) 茶碗のしおりには
氏はその三男として幼より陶技を好み曽て陶祖二十九代加藤麦袋翁の門下に技法を学び、翁終生独特の妙を授けられる。
⑨「現代瀬戸名工列伝」にも記載あり
注01:尾張国瀬戸 尾張名古屋藩瀬戸村(明治初年時点)、明治4年廃藩置県により名古屋県、明治5年愛知県となる
注02:東春日井郡 1878(明治13年)に行政区画として発足、瀬戸市の大部分を含む
注03:水野古麦(忠衛) 1926(大正15年) 拝土窯 瀬戸市東拝土町 子息:水野陶和(すえかず)
注04:水野秀山か?
注05:津田応助 1890(明治23)~1967(昭和42) 愛知県東春日井郡小牧市生まれ 愛知県の郷土史家
・・・整理すると、
1861(文久元年)、尾張名古屋藩瀬戸村生まれ、1943(昭和18) 没
本名 加藤友五郎 ・・ 同時代に別人の加藤友太郎がいるので日本陶業連盟をとったが友太郎との情報が多い
加藤春岱門下。門下に水野古麦。
※小傳 短歌に2タイプある
2.「自伝 土と炎の迷路」加藤唐九郎(日本経済新聞社) に「麦袋」の記述が数か所出てくる。
①「青春の彷徨/桃山古陶の研究」
幕末の名工、加藤春岱の流れを汲むと名乗る加藤麦袋からもずいぶんいろいろな作陶の秘伝とされるようなことまで教えてもらったが、
(中略)麦袋老は私に言ったものだ。「庄九郎よ、お前ぁなあ、志野なんちゅうものは、そう簡単にやれるもんじゃ無あ。
おれが一代かかってやっても、なかなかやれんでなあ」
(中略)麦袋の志野は柔らかい感じて持って軽く、色は暖か味のある白だったが、志野独特の緋色がなかった。
②「個人作家をめざす」の瀬戸古窯調査保存会(注06)役員名簿<評議員>瀬戸町東部に名前がある。
③「伝統に徹する/祖母懐窯」(注07)
思えば、麦袋から覚えた、只白いだけという「志野」にはじまって、(以下略)
④「 〃 /氷柱と鈍翁」
瀬戸へ来ていた福田桜一(注08)という男がいた。(中略)加藤作助、それに麦袋や私のところへ、しょっちゅう出入りして、(以下略)
(次P)そういう手合いは、麦袋の志野のようなものもすら知らず、(以下略)
注06:年譜によると瀬戸古窯調査保存会の結成は昭和4年
注07:「うばがふところ」、現在は「そぼかい」。志戸呂にも「祖母懐・姥懐」銘の焼物がある。
注08:北大路魯山人(福田房次郎)の子息
3.銘
・麦袋の茶碗には「印」を押したものと「彫銘」がある。
・『印を大雑把に分別すると、楕円形と小判形(横が比較的直線)になる。』としていたが、あまり違いはない。
・文字は「麦袋」がほとんどだが「麦代」印がある。もしかすると別人か(娘という情報もある)。
・御深井釉の平茶碗には「祖母懐」の印が押してある。
・お祝いの印として、「古稀」(70)、七が三つの「喜」(喜寿77)、それに「金婚」がある。
・「金婚」印のある茶碗の箱には高砂の銘があり、蓋裏には麦袋と奥さんの名前が書かれている。
・変わったところでは「昭和御大典奉祝記念」(昭和3年/1928)の印がある。
・彫銘は「麦袋」が多いが「八十八 麦袋」も数多い。八十八までは生きなかったはずなのだが。(5.謎①参照)
・箱は麦袋で「笑恣(しょうし)」と読める彫銘の志野茶碗を入手した。山の絵(注09)が描いてある。この銘の正体は今のところ不明。
注09:桃山期の山水文茶碗・銘蓬莱山を模した絵で荒川豊蔵を始め多くの志野茶碗作家が描いている。
古稀印+楕円形 | 喜印+小判形 | 徳利の金婚印 |
祖母懐 | 昭和御大典奉祝記念 | 麦代印 |
4.作品等 ~ 手持ちの作品より
・主にネットオークションで手に入れた。ほとんど茶碗だが茶碗以外の作品も十数点ある。(注10)
・『当然「瀬戸」が多いが「志野」も瀬戸に次いで多い。手持ちの割合では7:3くらい。瀬戸は轆轤(ろくろ)、志野は手捏ね(てずくね)で作られている。』としていたが、志野釉の茶碗は全て「志野」の括りとする。
・茶碗が50数点あるが同じ茶碗は「松絵」と「暦手」の2碗のみで、その他はどれも色と形が違い変化に富んでいる。
・横山葩生が絵付けをした作品が数点ある。
注:横山葩生(よこやまはせい)日本画家。1899(M32)愛知県瀬戸市生まれ、1974(S49)没
・箱に「緑樹庵」の印を押しているものがある。また蓋裏に「陶祖二十九代」と書かれているものがある。
赤津御窯屋(おかまや)歴代を春岱からみてみると
景典(春山:父)-宗四郎(春岱・27代)-光太郎(長子・夭折)-梅太郎(今春岱・甥)-春岱(慶応元年復帰)-麦袋(29代) となる。
なお、赤津御窯屋は三家あり春岱は「仁兵衛家」で、あとは「唐三郎家」と「太兵衛家」。
緑樹庵 | 陶祖二十九代 |
注10:種別毎の数 2020/07/01現在
種別 | 楕円 | 小判 | 彫銘 | |||
麦袋 | 八十八 | 秀山 | ||||
茶碗 | 瀬戸 | 4 | 10 | 5 | 4 | 2 |
天目 | 5 | 2 | ||||
黄瀬戸 | 2 | |||||
志野 | 3 | 5 | 4 | 4 | ||
織部 | 1 | 3 | ||||
茶入 | 瀬戸 | 5 | ||||
花入 | 織部 | 1 | ||||
蓋置 | 志野 | 1 | ||||
菓子器 | 志野 | 2 | ||||
風炉 | 瀬戸 | 1 | ||||
煎茶器 | 織部 | 1セット | ||||
茶壺 | 志野 | 1 | ||||
徳利 | 黄瀬戸 | 1 |
サーバーの容量が増えたので順次詳細の写真をアップしていく。
小判 | 瀬戸 松絵 |
||||
小判 | 瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 瀬戸 三つ雁金 |
箱なし | |||
小判 | 瀬戸 春暖~ |
箱なし 春暖花甲のたうげ路 夢みいる 秀生 華甲:還暦 |
|||
楕円 | 瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 古瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 古瀬戸 | ||||
小判 | 古瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 古瀬戸 | ||||
楕円 | 織部 | 箱なし 俵形 猫と鼠 |
|||
楕円 | 織部 | 箱なし | |||
楕円 | 黄瀬戸 | ||||
楕円 | 黄瀬戸 | 箱なし | |||
楕円 | 黄瀬戸 | 箱なし | |||
楕円 | 黄瀬戸 | 箱なし | |||
小判 | 椿手 (チンシュ) |
||||
祖母懐 楕円 |
椿手 (チンシュ) |
||||
小判 | 金花釉 | 箱なし | |||
楕円 | 志野 | 箱なし | |||
楕円 | 志野 轡絵 |
箱なし | |||
小判 | 志野 鶴絵 |
||||
小判 | 志野 森絵 |
箱なし | |||
楕円 | 志野 | 箱なし | |||
小判 | 志野 | 箱なし | |||
小判 | 志野 | 箱なし | |||
楕円 | 志野 葦絵 |
箱なし | |||
小判 | 志野 富士絵 |
||||
小判 | 志野 天俾画 |
箱なし | |||
昭和御大典 楕円 |
志野 鳳凰桐 |
||||
金婚印 楕円 |
志野 箒と熊手 |
||||
彫銘 | 瀬戸 | 箱なし | |||
彫銘 | 瀬戸 | 箱なし | |||
彫銘 | 古瀬戸 | 箱なし | |||
彫銘 | 御深井釉 | ||||
彫銘 | 御深井釉 | 箱なし | |||
彫銘 | 志野 松絵 |
||||
彫銘 | 志野 松絵 |
||||
彫銘 | 志野 宝珠絵 |
箱なし | |||
彫銘+古稀 | 志野 渚松 |
||||
彫銘+古稀 | 黒織部 暦手 |
箱なし | |||
彫銘+古稀 | 黒織部 暦手 |
||||
楕円+古稀 | 志野 山絵 |
||||
楕円+古稀 | 志野 鶴絵 |
||||
楕円+古稀 | 志野 鶴絵 |
||||
㐂+楕円 | 古瀬戸 | ||||
㐂+楕円 | 志野 | 箱なし | |||
㐂+楕円 | 金海鼠 | ||||
甲寅生 八十五 楕円 |
志野 富士絵 |
||||
彫銘 八十八 |
瀬戸 | ||||
彫銘 八十八 |
古瀬戸 | ||||
彫銘 八十八 |
御深井釉 印花紋 |
||||
彫銘 八十八 |
瀬戸 蓬莱絵 |
||||
彫銘 八十八 |
瀬戸 孝道忠臣 |
箱なし |
5.謎①~本当の年齢は
彫銘に「八十八 麦袋」があるが各資料によると82歳で亡くなったことになっている。単に縁起が良いので「八十八」にしているのか。
ここに古稀印の押された暦手の茶碗がある。暦は「甲子」なので1924年。ということは麦袋の年齢は 1924-1861=63歳
ということになるが、古稀(70)だとすると 1924-70=1854年生まれとなる。
1854年生まれだとすると、亡くなった1943年時点の年齢は89歳となり、彫銘の88歳が不自然でなくなる。
当時の戸籍制度を考えると麦袋本人は本当は1854年生まれと教えられていたか。
もう一つ、「甲寅生 八十五」の彫銘が茶碗がある。「甲寅」は1854年で上記と一致する。
整理すると、生年 1854年(嘉永6/12/3~7/11/12)、享年 1943(昭和18)、89歳まで生きたことになる。
6.謎②~秀山銘の茶碗
龍祥筆 二河白道図(にがびゃくどうず)の茶碗がある。共箱で蓋裏に麦袋作とあり印が押してあるが、茶碗には彫銘で「秀山」としてある。
同じ彫銘で古瀬戸釉の茶碗がある。こちらも「麦袋」の彫銘に比べると丁寧で細く深く彫ってある。
さらに、麦袋のような彫銘で「八十二才 秀山作」としたものと「秀山」印の茶碗がある。これらは古麦の父親の秀山の作品なのか麦袋の作品なのかが判断つかない。最近手に入れた彫銘「秀山」茶碗。秀の字の6画に特徴があり今までの「秀山」とまた違う。
麦袋を名乗る前に秀山を名乗っていたのか? 改名したとすればいつ頃なのか? それにしては秀山銘の作品が少ないのだが。
系統を整理すると
(27代)加藤春岱 ----- (29代)加藤麦袋
↑ 師事
加藤秀山-(三男)水野古麦(拝土窯)-水野陶和
八十二才秀山作 |
特徴のある6画目 |
多治見に加藤秀山がいるが、こちらは「秀」一字の押印